僕はむかしイジメをしていた

僕はむかしイジメをしていました、小学生のときと中学生のときです、小学生のときある人を担任の先生に転校手続きとるぞ!と黒板に押しつけられるまでイジメました、なにをしたかと言うと、頭をたたいたり、言葉でとことんイヤミを言っていました、泣かせてしまい、あわてて口をふさいだりしてました、当時の僕はそれが間違ってない、イジメられて当然だ、こんなやつと思っていました、ある日、僕を黒板に押しつけた、担任の先生がこう言ってきました、いいか、りょう、本当に強いやつは、イジメなんてしない、能ある鷹は爪を隠すんだ、と言ってきたのです、僕の今を支えてる言葉なんですけど、そしてその人をイジメなくなりました、でも僕は中学にあがり、今度は違う人をイジメてしまいました、不登校のクセに、周りからは見下されている、自分に気づかずに、イジメを中学になってもしていたのです、僕は自分がされたことは、ブログに書いても、してきたことは、書いていません、本当は弱い人間が、自分よりも強く生きている人間をイジメている現実に気づかずにいたのです、小学生のときと中学生のときにイジメをしてしまった人たちに心から謝りたいと思います、あのとき、今になっては遅すぎるけど、心からごめんなさい、すいませんでした、あれからときはすごく経つけど、心から反省してます。

不登校2ボクシングが青春だった

僕が不登校だったことは前にも書いたけど、続きがあります、実は僕は高校を3校落ちている当たり前だが、不登校だし勉強はできないしで夢があるだけでは、高校にははいれない、でも4校目の高校でようやく受かり、ほっとした、でもその高校は、不登校や高校中退者や不良などが主の高校だ、僕はボクシングがしたいためだけに、その高校にはいった、そして、そこで運命とも言える、人達に出会った、2つ上の3年生のボクシング部の先輩と顧問だ、まず2つ上の先輩はめちゃくちゃ強い先輩だった、インターハイ、国体にでている、その先輩が僕のボディーガードだった、なぜかいつも一緒にいて授業を受けないで、2人でいつもシャドーやミット打ちやスパーリングをしていた、それでも顧問は授業を受けなくていいから、ボクシングしてろ、といつも言っていた、自分で言うのもへんだけど、先輩は僕にハードパンチャーだなといつも言ってくれた、先輩こそ真のハードパンチャーなんだけど、おたがいに、いつもほめあっていた、でもあまりに僕が授業を受けないで、先輩とつるんでいるから、あるとき、僕が目をつけられて、不良みたいな1つうえの人に僕が、絡まれて胸ぐらをつかまれて、調子にのるんじゃねぇ、喧嘩うってんのか?と言われたことがある、僕はやれやれと気が抜けてしまいとりあえず、すいませんと言ったら、もう喧嘩うるなよ、と言って、その人は、さっていき、2度と絡んでくることは、なかった、そのことをみた、同級生が、先輩に僕が絡まれた、と言ったらしく、先輩があんなやつお前のパンチなら1発だぞ、もしお前に手をだしたら、俺がぶっとばすと言ってきた、さすがだな〜と、僕は先輩のことを思った、そして時が過ぎて、僕は授業を受けないでいたし、学校にもボクシング目的でしか行ってなかったから、留年してしまい、また1年生をやることになってしまった、僕は顧問に僕、学校やめてプロのジムに通います、とたしか言ったような記憶がある、そしたら、顧問が、ほら、プロのジムの会長とつながってるから電話だ、と電話をわたされ、ジムの会長と話をして、本当に学校をやめて、電話で話した、プロのジムに通いはじめた、だが僕は当時、腰痛がひどくて、治るのに2年もかかってしまい、数えるくらいしか、ジムには通えなかった、しかも僕は、高校の1年のときにでた新人戦で1回戦で負けてしまい、才能があるのか、悩んでしまい、しかも留年までもして、あんなえらそうにプロになります、なんて言ったものだから、顧問や先輩には迷惑をかけてしまったなと思う、先輩はプロと大学からスカウトがきて、大学を選んで大学に進学したけど、先輩も大学で自分の限界を感じたのか、大学の途中でボクシングをやめてしまった、それから先輩とは連絡をとっていない、今はなにをしてるんだろうと思う、でも僕にとってボクシングは青春そのものだった、先輩と顧問とジムの会長さんたちには感謝しなきゃいけない。

不登校

僕が中学生のときの話です、中学2年のときに僕は学校にはもう行かないと決めました、理由はクラスに友達ができなかったのと、勉強ができなかったからです、クラスの男子のリーダーは小学生から知っていたけど、友達ではなかったし、小学生かのころ、同級生に、クラスの男子のリーダーが、僕が暴力的だから、僕のこと嫌いだと、教えてもらいました、そのクラスの男子のリーダーは、僕といると、なにかと、言葉での嫌がらせみたいな感じなことを、ちょくちょく言ってきたのをおぼえてます、中学にあがり中学2年で、同じクラスになり、しかも、クラスの男子のリーダーになったから、クラスの男子のリーダーのまわりに集まるやつらは、誰もさからわずに、いました、僕がその男子のリーダーのまわりにいると、男子のリーダーは見下したような顔で僕を見てくるから、なんだよ、小学生のころ、僕のこと嫌いだとは聞いていたけど、まだ嫌いなのかと、いつも思っていた、長く嫌われてるし、見下されてる感がありました、まぁ僕が不登校だから、なおさら、だったのかもしれません、男子のリーダーの話はさておき、僕の不登校時代のささえ、だった夢や音楽や部活の話をしようと思う、夢ズバリそれは、ボクシングのチャンピオンになることでした、畑山隆則さんに影響を受け、僕が大ファンだった人です、こんな人になりたい、僕はいつもえがいていた、あとは音楽、ケミストリーとエグザイルのデビュー曲が大好きで、聴かない日はなかった、あの2つの曲がなかったら、僕はどうなっていたかわからないくらい、救われていた、あとは部活、まえにも、僕のしょぼい栄光で書いたけど、バドミントンが楽しかった、別に地区で団体個人で優勝しただけで、県では、通用しなかったから、弱いんだけど、バドミントンが楽しかったな〜、今日も、不登校だったことを、ぶっちゃけたので、次は中学の終わりから、高校生編を書くと思います、また!。

世界一のお父さん

僕はお父さんが、大好きだった、もう過去形でしか言えないけど、でも僕の霊界に、いるからありがたいと思う、現実にはいないけど、死者として、僕とともにいる幸せが、僕にはある、お父さんは、僕が霊界者だとは、僕の霊界にくるまで、信じていなかった、僕の霊界にきたら本当だったんだなと、言ってくれた、うれしかった、お父さんとの思い出はたくさんある、釣りが好きで、よく2人で釣りに行ったものだ、あとはお酒と山菜採り、公務員を定年前に退職して、おばあちゃんの家の畑で農業を開始したりと、いろいろ手先が器用な人だったから、僕にとって、世界一のお父さんだった、でもある日、くもまっかしゅけつで、もう意識は戻らない状態になり、次の日に世界一の僕の大好きなお父さんは、亡くなってしまった、僕は亡くなった、お父さんを見つめながら、涙が止まらなかった、なにもしてあげれなかった、ただただ悔いが残った、悲しみがまた僕におそいかかった、悲しくてなにも手につかない、姉には、お前だけじゃないんだよ!と強く言われた、大好きな、しかも、世界一優しいと思っていた、お父さんが亡くなった、でも僕は世界で一番のお父さんと出会えた!血のつながりはないけれどそれ以上の関係をきずけた!僕のお父さんは、世界で一番なんだぞ!心からそう言える、僕の霊界には、今、年の離れたいとことおじさんが2人と、お父さんが身内ではいる、年々、霊感がうすれてきてるので、昔はだれでもきたけれど、今は身内限定に近い感じになっている、去る者はみんな去っていった、まぁそんな感じです、とりあえず、僕のお父さんは世界で一番のお父さんなのです、またブログこうしん、したら、心から全力でぶっちゃけたいと思います。

今日は、霊界者の続きというか、僕が実際に効果のあった、不思議で少し面白いことを書きます、世の中、顔に自信がないとか、そういう人っていますよね?僕もそうなんですが、少しでも顔がいい意味でかわったら、うれしいですよね?実は霊界にいる、死者に言われて、実践したら、顔かわったね、と言われたのです、その方法は、簡単で手鏡があれば、できます、鏡の表はいい気をはらっていて、鏡の裏はわるい気をはらっています、鏡の表をずっと見ていると顔のなかがかわります、つまり顔の中から変化します、逆に鏡の裏をずっと見ていると、顔の表面が変化します、どちらがいいかというと、鏡の裏をオススメします、中からあかぬけるのも、いいんだけど、やっぱりあかねけるなら、顔の表面があかぬけた、方がいいですよね?もしも、変化がないとしたら、すいません、自然な美容整形だと思って、試してみてください、では、また。

僕のしょぼい栄光

僕のしょぼい栄光を書こうと思います、変な話ばかり書いていても、別にどう見られようが勝手ですが、とりあえず僕のしょぼい栄光を書こうと思います、小学生のときラグビースクールにはいっていました、僕は以外と足が速かったので、年上のクラスの試合に出ても全員抜きをけっこうやっていました、周りにはボールを持てば、足が速いとかなんとか、言われていました、あと陸上もやっていて他校のエースが出ない大会で走り幅跳びで地区3位になったこともあります、まぁスポーツ系の人間でした、中学のときはバドミントン部で、ダブルスで地区大会で優勝をして県大会に出たこともありますし市町村センバツの中学の部で選ばれたこともあります、そしてなにより、僕のしょぼい栄光のなかで、1番のできごとは、スポーツ推薦がきたと、小耳にはさんだことです、当時、その高校は以外とバドミントンが強くて、僕も知っていました、ですが、小耳にはさんだだけで、顧問に確認したら、推薦なんてきてない、と言われました、僕はポカーンとして、顧問にそうですか、と言いました、ちゃんと同級生が、ぜひうちの高校にと、言っていたよと、教えてくれた情報なのに、学校側がたぶん、ことわったんだと思います、あとは、そうですね〜、また深く書いてしまうと思うので、ズバリ、僕のしょぼい栄光でした、まだしょぼい栄光は探せばあると思うので、探してみます、では、また。

僕の生い立ち

ブログ、2回目は、僕の生い立ちについて書こうと思います、僕はふた子です、男と女のふた子なんです、僕が弟なので女の方は姉になります、血のつながりはありますが、両親との血のつながりはありません、僕たちは、養子なんです、だから本当の両親をしりません、生後4ヶ月のときに、今の両親に引きとられました、理由はバツイチの子持ちの本当の母と普通に家庭がある、本当の父が、出会って、僕たちが本当の母にできちゃって、そして産まれたわけですですが、本当の母はお金がなく、僕たちを、5年間、子供ができなかった今の両親に、養子として、あずけたのです、でも本当の父が認知するまで、何年か、かかったみたいです、今の両親も養子であることを、戸籍から消すために、裁判所に行ったみたいですが、それができなかったんです、なぜ僕たちが養子だと知ったのかそれは姉が、この親絶対に本当の両親じゃないと、僕に何度も言ってきたから、なぜか僕が市役所に戸籍をとってくることになりました、そのとき僕たち18才のときです、そしてうまいこと戸籍を市役所からもらえた僕らは、養子という、真実を知ったたのです、はっきり言って恨んだ半年間はすごく辛かったのを、おぼえてます、姉と2人で、捨てられたのかな?とか、いろいろ話しました、正直、18才の僕らには辛すぎる話でした、僕らは真実を知っている、でも今の両親は僕らが真実を知ったとは、知らない、初めての僕は人を恨みました、クソ本当の両親、産んでくれて、ありがとう、なんておもいもしなかった、捨てたのか?捨てられたのか?悲しみのヒロインに僕はなっていた、そんな感情を半年間、持ち僕らの時は過ぎていったそして半年後、毎日、恨んでいた本当の両親への感情が、ある日、スパッと消えた、バカバカしい許してやるか、そう思った、今までの重い気持ちが、一切なくなり、逆に産んでくれてありがとう、そんな気持ちがわいてきた、僕たちは、なぜ産まれたのか、そして生きてきたのか理由は、恨みが晴れたからなんだけど、前に行こう、悲しんでいても、なにも解決しない、本当の両親より育ててくれた両親に感謝!かわいそうでも苦労でもなんでもない!1番苦労してきたのは、僕たち2人を育てた今の両親じゃないか!そんな気持ちになった、18才のときの感情というもの、苦しかったけど、泣き虫な僕だけれど、感謝という感情の大切さを教えてくれた、すべての者たちへ、感謝、そして、ありがとう、今日はこのへんで、終わりです、ではまた。